消えゆく昭和の雰囲気

小学校の頃というのはよく大人からからむかしばなしを聞かされるものである。

例えば、親戚たちである。彼らは、自分とはどのようなつながりなのか、母方とこの何とやら、と両親から聞かされるものだが、次にあったときにはすっかり忘れてしまう。忘れたままやり過ごすことに慣れていく。そして、自分が大人になるにつれてか、時代のながれか、その親戚たちとの付き合いもなくなっていった。今では、なんとなく居づらい空気感の記憶だけが残っている。僕らの世代では、そんな濃い親戚付き合いはないのだろう。


曾祖母ちゃんの家は、土間がある昔ながらのつくりだった。正月やらお盆やら親戚チックなイベントがあると、そのひいおばあちゃんと会うことが多かった。

小学生くらいの頃に、実家(両親の家)で、妹、両親、祖父母、曾祖母(たぶん曾祖父さんはすでに死んでいたんだと思う)で、マクドを食べたのが印象に残っている。普段飲めないぶどうジュースが飲めたからだろう。家族・親戚の思い出など、本当に他人との共感はできないものだけど、とりあえずたくさん集まった光景が記憶のかたすみにあるのは、あるあるなんじゃないかな。

その曾祖母の葬式は、その人の家でやった。今なら、間違いなくどこか葬儀屋でするくらい狭い家だった。僕は、まだ小さくて理解ができなかったので、じっと座っていることができずに、裏でいとことトランプをしていた。そういえば、死に間際も家族で病院にいったのに、僕は何かのアニメに夢中になっていたような。遊戯王だったと思う。なんとも愛想のない人間だな、と我ながら思う。

葬式の後は、誰も曾祖母の家には住まないことになったので、いわゆる日本の原風景ともいえる、昭和期の古民家は、そのまま放置されてしまった。先週の日曜日におぼろげな記憶をたよりに一人でその家におもむいたのだが、荒れ放題で朽ちていた。ああ、ひとが死んだあとというのは、残酷に時間が流れるのだな、と思いました。


記憶の断片を書いておく。

課外学習の時間に、とあるじいさまに聞いた話だが、地元の町は、小学校が四つに分かれているが、それは町が四つの村が合併してできた名残でそうだ。
その昔、川が氾濫する水害があったこともあり、川のそばの田んぼはほとんど水につかってしまった。その教訓を生かして、堤防は二段になっていて、ほか町よりも高くなっている、という話だった。

僕の通っていた小学校の校庭は戦時中、食糧難のため、一面さつまいもを栽培していたという。校庭すぐ近くの丘の斜面には、防空壕を作っていたという。

おじいちゃんとおばあちゃんの話している言葉は僕には理解しにくい方言である。
「愛想なしで、すまんなぁー」「あらいなぁー」などと彼らは今でも相変わらず、「ざじずぜぞ」がみなさん「だぢづでど」になってしまう。母親もけっこうなる。父親はなぜかならない。その子供の僕と妹は現代っ子なのでもちろんならない。


などなど、いろいろ昭和のころや昭和の人たちについて書いてきたが、僕は平成生まれだ。だが周りの人たちは昭和と共に生きてきた人々である。
日本らしさ、というとどうしても、田舎の昭和の田園風景が出てくる。

良し悪しは別にして、そういう昔の日本が持っていた情緒みたいなものは確実に失われている。同じ条件では生きていけないのである。自分が記憶している昭和のようなものを少し書いてみたくなったので、綴ってみた。

地方の記憶や歴史は確実に消えていく、これからってどうなるだろうね。
なるようには、なるんだろうけど。

おしまい