生きていることの短さについて

こんにちは。

きょうは、スマホ、もしくはスマフォで投稿しております。


きょうは、とり止めなく書きますね。


ぼんやりと頭に浮かぶことがあります。

歩いているとき、お風呂に入ってきるとき、何となく思いつくこと。これらを書き留めたいのですが、その時は、書き留める手段がないのです。その場は続いていきますからね。

都会に住むことについてです。
住んでいると感じること。

都会による、都会ための、都会の生活。

なんか、足りないね、この定型文には。まぁ、いいや。

自分の意志すら都会に決められている感覚になるときがあります。よきファッションなんて、金をかけてお互いに街中で、会話もしないでアピールしあっている感じがするのです。

結局、批判もしながらも、どこで自分をアピールしたい自分もいます。そうして自分のポジションを見つけながら装いを見つけるのです。

そう、ファッションに嫌悪しながら、魅力を感じる自分がいるのです。

ファッションは、変装を組合わせて、裸の自分を別のものにしたり、ブランドの世界観に自分を重ね合わせたりするんだと思います。

自分の社会での位置付けを決定したり、自分の信じる世界を表しているのだと思います。


今日の書き方は、手紙というより、ツイートに近いね。

次。

別になにもリスクを抱えているわけではないのだけれど、よく死を意識します。10年後自分なんてまったく想像できないです。

いつか死んでしまうなんだろうな、ととても怖くなるときもあるし、

特に、祖父母は死んでしまうなんだろうな、と思うと、現実味をおびてきます。そして、両親は、自分の親が老いていくことに何を感じているのだろうと想像してしまいます。

この想像は、ここ半年くらい、ふとしたときに、浮かんでくる思考です。

ちなみに、自分の死に対する恐怖は、2014年の4月から6月くらいまでよく実感をもって感じていました。最近はあんまりですね。

自分は確率的には70歳くらいまで、生きるんだろうけど、2、3年後くらいまでしか生きていることが見えないです。

うーん、普段ぼんやりでてくる言葉にしてみると、思っていた感覚とずれてしまうんだよね。なんだか悲しいですね。言葉から出てくる物足りなさに。

はい、次。

日常生活のところどころで、ふと昔の風景が浮かんでくることがあります。

なぜ、その景色が浮かんでくるのか、自分では理解できないのですが、浮かんできます。意識の半分以上は目の前のことに取りくみながら。

仮説ですが、その風景のときと、同じ気持ちや体調や気候なのかもしれないです。僕は旅行先でなんとなく取り立てて印象にも残っていなかったことが突然浮かんできます。

ほんとうに、不思議な現象です。この歳でたくさんすぎるくらい浮かんでくるので、20年後には思い出を味わうだけで余生をおくれるのではないかと思います。

はい、次。

と行きたいところですが、言葉にするのはむずかしく、ここで力尽きました。

なかなか、言葉にして、わざわざ書くほどのことではないけれども、みんなが感じているのではないかなって、思う感覚をことばにするのはなかなか楽しいものです。


また会う日まで