和歌山なんとかしちゃらなあかん

和歌山を大いに盛り上げるためのブログです。

目的意識がありすぎる人間の徒然草

こんにちは。

 
どうも僕は、目的意識を持ちすぎていけない。
 
いつも、なにをするにしても、これにはこうこうの意義があるのではないか、というふうに考え込んでしまう癖がある。
 
あるいは、これにはまったく意義がない、というふうにその場やその人たちに対しても目的を見出そうとしてしまう癖がある。
 
そう、今こういうふうに文章を書いていることにさえ、何がしかの意味を見出そうとしている。目的意識がありすぎることが問題であるから、目的意識のない文章を書こうとして、この文章が書かれている。
 
つまり、「目的意識のない文章を書くことが、この文章の目的」である。
 
本末転倒である。
 
テレビの中のテレビ。テレビの中のテレビの中のテレビ。のように、
 
あるいは、主語と述語を逆さにしたようなモノの考え方をするくせがある?
今がんばって、自分の感覚をうまく比喩表現をつかいながら、説明しようとした。
 
しかし、「テレビの中のテレビ」と「主語述語が逆さ」という話は論理的には同じとは言えない。それは、自分でもわかっています。ただ、なんとか近い感覚の表現を選んで自分を頑張って説明しようとしました。
 
話を戻します。
 
目的意識のない文章を書こうと思います。もっと楽しく、ユーモアにあふれた文章が書きたいです。無理ですか。自分でもわかってます。
 
ただ、こう今までの書いてきたブログのように人を動かそうという魂胆のある文章を書こうとすると、どうしても文章が短くなってしまって、自分らしさのようなものをかきつくる行間が失われているように思います。
 
今、こう、くどくどと書いてきた物事は、「文章を書く」ということについて文章を書いてきました。
 
こういうことが、「テレビの中のテレビ」のような考え方の癖なのです。そういう考え方が自分でも、面白いものだと思ってこうなってしまったのでしょうが、いつも同じような考え方をするのは頭を同じようにしか使えないような人間になってしまう。
 
それだけは避けたい。なぜでしょうか。それは、自分の脳、ひいては自分を少しずつ変えていくことに意義を感じたり、面白いと思ったりするからです。
ですが、ここで結局のところ目的意識をもった人間に成り下がってしまいます。悔しい。
 
いずれにしても、ボクは斜に構えた文章を書いてしまうクセがあります。ここからは、文章や考え方という意味で影響を受けているであろう作家や作品について書こうと思っているのですが、ブログにしては文章が長くなってきたので、この辺にしておこうと思います。
 
前半は、夏目漱石をなんとなく意識して、中盤以降は村上春樹をなんとなく意識して書いてみました。
  
「なんとなく」と書いたのは、まったく同じような文章を引用したというよりは、「なんとなくこんなかんじかもね」って意識の7分1くらいで意識して書いたからです。
 
さようなら
 
すこしは、目的意識がなかったでしょうか。